2013年12月4日水曜日

【人物伝】毛利勝永【安土桃山時代~江戸初期の武将】

大坂の陣において豊臣方の勇将としては真田信繁(幸村)と後藤基次(又兵衛)らが有名であるが、今回紹介する毛利勝永も前記の二人に劣らず天晴れな武将だ。
以下ほとんどWikipediaのコピペ。


勝永は、羽柴秀吉の家臣の毛利勝信の子として天正5年(1577年)に誕生している。

九州平定が成った天正15年(1587年)に父勝信は豊前国(福岡県の東側)小倉6万石、勝永は豊前国内に1万石を与えられた。
その際に元々は森姓だったのを、中国地方の毛利氏にあやかって毛利姓に改姓している。

慶長2年(1597年)の慶長の役において、蔚山城の戦いで戦功があったそうだ。

慶長5年(1600年)、伏見城攻略で活躍したものの、関ヶ原では安国寺恵瓊の指揮下に組み込まれ戦いに参加できずに終わってしまった。

戦後は改易(領地没収)となり、父と共に身柄を新たに土佐国(高知県)の領主となった山内家に預けられる。
山内一豊は織田家臣出身で、毛利親子と古くから親交があったため厚く遇された。

しかし徳川との緊張状態が高まる豊臣家の要請を受け、息子勝家を連れて土佐を脱して大阪城へ入城する。

大坂城では真田信繁や後藤基次らと共に大坂城の五人衆と称された。

冬の陣では特に戦闘はなかったが、続く翌年の夏の陣では華々しい武勲を立てている。
まず道明寺の戦いにおいて殿軍を務め、真田勢ら豊臣軍を無事に撤退させることに成功した。
この戦いで後藤基次の戦死を嘆いた真田信繁が決死の覚悟を決めるも、勝永に諌められて撤退している。

翌日の天王寺・岡山の戦いにおいては4,000人の兵を率いて本多忠朝(忠勝の息子)や小笠原秀政らを討ち取り、さらに浅野長重・秋田実季・榊原康勝・安藤直次・六郷政乗・仙石忠政・諏訪忠恒・松下重綱・酒井家次・本多忠純の軍勢を撃破するという鬼神の如き奮戦をする。
さらには真田信繁と共に家康の本陣に何度も肉薄し、三方ヶ原の戦い(家康が武田信玄にボコられた戦い)以降倒れたことのない家康の馬印が倒れ、家康自身死を覚悟したと言われている。

天王寺・岡山の戦い布陣図(Wikipediaより引用)

しかし衆寡敵せず、数で劣る豊臣軍は次第に押され、真田信繁は討ち死にし、勝永は豊臣軍の中で唯一壊滅することなく戦線を維持いたが、大坂城への撤退を余儀なくされた。
撤退においても藤堂高虎隊を壊滅させたり、井伊直孝や細川忠興らの追撃をよく防いでいる。

そして主君豊臣秀頼の介錯を務め(諸説ある)、炎上する大阪城で息子と共に自害して果てた。


それにしてもすごい武勲赫々の人物である。
それなのに真田幸村に比べるとマイナー過ぎる!
もっと毛利勝永は評価されるべきではないだろうか。



 
勝永を主人公にした小説だそうです。

<参考資料>
フリー百科事典Wikipedia

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